2007年11月04日
ヒンギス特集part3
1996年全米オープンでベスト4まで進出をし
それでヒンギスは自分は強い
より自信をつけた
そこから怒涛の初優勝、その後の残り年内の4大会も
準優勝、準決勝、優勝、
世界のTOP16人しか入れない女子のマスターズでは
引退を決めた伊達公子を2回戦で、準決勝はイバ・マヨーリ
に勝利し
決勝を当時世界NO1のグラフに
3/6 6/4 0/6 6/4 0/6 で負けたものの
グラフにこの子は将来絶対にNO1になる・・・・・
私の時代が終わろうとしている・・・
と思わせたらしい
96年は世界ランキングは4位まで上昇
1997年グランドスラムで全豪オープンのシングルスで
史上最年少優勝
弱冠16歳であった
そして年始から全仏オープンまでの6大会全優勝
シドニー国際、全豪オープン、東レ、フランスガスオープン、リプトン選手権、この5大会で優勝をした事によって
世界ランキング1位の座に
史上最年少の16才6ヶ月で就いた
その後もファミリーサークル・マガジン・カップを優勝して6大会連続優勝
だけれども、落馬によりひざの靱帯を切断するアクシデントがヒンギスを襲う
手術をして、まだ様子見の段階であったが
全仏オープンに出場し、準優勝という好成績
6月末に始まったウィンブルドン選手権に第一シードで出場したヒンギスは、
注目される中でオープン化後の史上最年少記録で初優勝
全米オープンもセットダウン無しの完勝での優勝
四大大会のうち3つを制し、全ての決勝へ進出
17大会中、12大会優勝で圧倒的強さを見せつけ
ヒンギス時代を創り上げた
ヒンギス自身も後々語っていたが
「今(2001年)考えると、もっと貪欲にやっていればもっと上にいけたかもしれない」
若くして世界NO1になってしまい、ちょっとした安心感が
あったのだろう・・・
これほど簡単にNO1にならなければ、歩みを止めることはなかっただろう・・・・
98年、そんな安心感から、全豪オープンは簡単に取れたものの、ダベンポートが本格化してきて、
ウィリアムス姉妹が少しずつ力を蓄えていた・・・・
全仏オープン、ウィンブルドンはベスト4。
全米オープンはダベンポートに負け準優勝に終わり、
世界ランキングが2位になってしまった
今まで、追いかける立場から1位を守っていく立場に
変わり、1位であり続ける難しさを知る
1999年 全豪オープン3連覇達成
やはり女王はヒンギス
そう思わせる納得の試合であった
その後、日本に来て東レPPOテニス決勝でクッツアーに圧倒的な試合運びで優勝して
世界ランクトップに返り咲いた
そしてヒンギスの
一番のターニングポイントであっただろう・・・
全仏決勝である
グラフが次のウィンブルドンで引退を決め、
世界の生ける伝説プレーヤーの引退には世界中が涙をした
そんなグラフが全仏で、決勝まで進み
現NO1のマルチナ・ヒンギスと元世界NO1のグラフの
新旧対決で、世界が注目をしていた
ヒンギスは自信を覗かせ、
後、一つ取っていないタイトル・・・
そして、グラフの伝説を私が止める・・・・
絶好調だったヒンギスはこんな想いから
試合初めから飛ばしていく
グラフもさすがに、ヒンギスにやはり押されている場面が
目立った
第1セットは楽にセットを取って
ヒンギスはやはり強かった・・・・
で終わる予定であった
が、一つのジャッジからヒンギスは、
集中を切らし、プレーを長々と中断させ、
奔放さを露呈しまい、マナー的に不信感を抱いた
観客が猛然のブーイングの嵐
ヒンギスは完全に全仏観客全員を敵に回し、
グラフを後押しをした観客達は、ヒンギスのやる気を
無くすには十分であった
ヒンギスは泣きながら、プレーをした。。。。
グラフは、半分貰い物の勝利だった
グラフが第2セット、第3セットを取り勝利した
ヒンギスは終わると、表彰式を出たくないと
全仏のコートから立ち去り、泣きじゃくった
母親にすがりつきながら泣きながら、表彰式に出た・・
全仏の観客はヒンギスのコールをされると
ブーイングを浴びせ、ヒンギスはフランスを敵に回した1戦であった
その影響からか、その年のウインブルドンでまさかの1回戦敗退
相手は伸び盛りのドキッチであった
その負けにより再びダベンポートに女王の座を奪われる
心に傷を負ったヒンギスは2ヶ月休養し
復帰戦でTIGテニスクラッシクを優勝
完全復帰を見せ再びトップの座に返り咲く
その大会でウェアとシューズをアディダスと契約する
part4に続く・・・
それでヒンギスは自分は強い
より自信をつけた
そこから怒涛の初優勝、その後の残り年内の4大会も
準優勝、準決勝、優勝、
世界のTOP16人しか入れない女子のマスターズでは
引退を決めた伊達公子を2回戦で、準決勝はイバ・マヨーリ
に勝利し
決勝を当時世界NO1のグラフに
3/6 6/4 0/6 6/4 0/6 で負けたものの
グラフにこの子は将来絶対にNO1になる・・・・・
私の時代が終わろうとしている・・・
と思わせたらしい
96年は世界ランキングは4位まで上昇
1997年グランドスラムで全豪オープンのシングルスで
史上最年少優勝
弱冠16歳であった
そして年始から全仏オープンまでの6大会全優勝
シドニー国際、全豪オープン、東レ、フランスガスオープン、リプトン選手権、この5大会で優勝をした事によって
世界ランキング1位の座に
史上最年少の16才6ヶ月で就いた
その後もファミリーサークル・マガジン・カップを優勝して6大会連続優勝
だけれども、落馬によりひざの靱帯を切断するアクシデントがヒンギスを襲う
手術をして、まだ様子見の段階であったが
全仏オープンに出場し、準優勝という好成績
6月末に始まったウィンブルドン選手権に第一シードで出場したヒンギスは、
注目される中でオープン化後の史上最年少記録で初優勝
全米オープンもセットダウン無しの完勝での優勝
四大大会のうち3つを制し、全ての決勝へ進出
17大会中、12大会優勝で圧倒的強さを見せつけ
ヒンギス時代を創り上げた
ヒンギス自身も後々語っていたが
「今(2001年)考えると、もっと貪欲にやっていればもっと上にいけたかもしれない」
若くして世界NO1になってしまい、ちょっとした安心感が
あったのだろう・・・
これほど簡単にNO1にならなければ、歩みを止めることはなかっただろう・・・・
98年、そんな安心感から、全豪オープンは簡単に取れたものの、ダベンポートが本格化してきて、
ウィリアムス姉妹が少しずつ力を蓄えていた・・・・
全仏オープン、ウィンブルドンはベスト4。
全米オープンはダベンポートに負け準優勝に終わり、
世界ランキングが2位になってしまった
今まで、追いかける立場から1位を守っていく立場に
変わり、1位であり続ける難しさを知る
1999年 全豪オープン3連覇達成
やはり女王はヒンギス
そう思わせる納得の試合であった
その後、日本に来て東レPPOテニス決勝でクッツアーに圧倒的な試合運びで優勝して
世界ランクトップに返り咲いた
そしてヒンギスの
一番のターニングポイントであっただろう・・・
全仏決勝である
グラフが次のウィンブルドンで引退を決め、
世界の生ける伝説プレーヤーの引退には世界中が涙をした
そんなグラフが全仏で、決勝まで進み
現NO1のマルチナ・ヒンギスと元世界NO1のグラフの
新旧対決で、世界が注目をしていた
ヒンギスは自信を覗かせ、
後、一つ取っていないタイトル・・・
そして、グラフの伝説を私が止める・・・・
絶好調だったヒンギスはこんな想いから
試合初めから飛ばしていく
グラフもさすがに、ヒンギスにやはり押されている場面が
目立った
第1セットは楽にセットを取って
ヒンギスはやはり強かった・・・・
で終わる予定であった
が、一つのジャッジからヒンギスは、
集中を切らし、プレーを長々と中断させ、
奔放さを露呈しまい、マナー的に不信感を抱いた
観客が猛然のブーイングの嵐
ヒンギスは完全に全仏観客全員を敵に回し、
グラフを後押しをした観客達は、ヒンギスのやる気を
無くすには十分であった
ヒンギスは泣きながら、プレーをした。。。。
グラフは、半分貰い物の勝利だった
グラフが第2セット、第3セットを取り勝利した
ヒンギスは終わると、表彰式を出たくないと
全仏のコートから立ち去り、泣きじゃくった
母親にすがりつきながら泣きながら、表彰式に出た・・
全仏の観客はヒンギスのコールをされると
ブーイングを浴びせ、ヒンギスはフランスを敵に回した1戦であった
その影響からか、その年のウインブルドンでまさかの1回戦敗退
相手は伸び盛りのドキッチであった
その負けにより再びダベンポートに女王の座を奪われる
心に傷を負ったヒンギスは2ヶ月休養し
復帰戦でTIGテニスクラッシクを優勝
完全復帰を見せ再びトップの座に返り咲く
その大会でウェアとシューズをアディダスと契約する
part4に続く・・・