2008年05月05日
伊達公子の勝ちは必然だった・・
伊達公子さんがあのカンガルーオープンで
準優勝までしたのは
偶然では無く必然だった。。。。
YAHOOでも何度も取り上げられている
JTA強化本部本部部長「今の日本女子だらしない!」
伊達公子を小さい頃から指導してきた小浦 武志さんが、
伊達公子さんが復帰を決意し、選手になる経緯の
お話が記載されていたので
ぜひ時間がある方は見て欲しい
あの復帰には並大抵の努力と決意があったのが
この文におさめられています
自分はこの文章を見て奮起しました。。。
勝つのは本当に難しい。。。
伊達公子は元世界4位だから・・・
なんて言葉で片付けれないものがありました。
小浦さんの話
「昨日の中村、その前に藤原が負けたということもあり、随所で、「日本テニスはどうなってるんや」という話が聞かれます。
ただ(伊達は)3週連続で(大会に)出るので、体力的なことも懸念されますが、来週また同じことが起きるかと言ったら、かなりのチェックが伊達に入りますので、それは難しいと思います。
なので、来週の福岡の戦いは、伊達がそんなに簡単に勝てるとは思っていません。
今回の復帰までのことで話をすると、3月のエキシビジョンの前に、
伊達から「(復帰して大会に)出たい」という相談を受けました。
その時、二人で約束事をして、「なぜ出るのか、出るテーマをはっきりさせよう」としました。
ただ単に遊びで出るなら、これは止めた方が良いと。
これまで彼女は現役を止めて11年半、キッズテニスやJICAなどのセカンドキャリアでテニスに携わってきましたが、私としては、正直物足りなかった。
50歳になっても出来る仕事だと。
なら、今出たいというなら、「名選手、必ずしも名コーチあらず」ということもありますから、あなたがテニス界にできることは、体を張って恩返しをすることだと。
それが一番。
次に、チャレンジャーとして絶対にあきらめない姿を現役に見せられるのであれば、体を張って教えてやってくれと。
それが出来るなら、やろうということで、話し合いました。
その上で、3週連続で戦える体力があるかという判断を私もしまして、出来ると(判断した)。
ハードコートであれば、もしかしたらもっとペースが上がるかも知れない量の練習を、この1月からほぼ毎日、やりすぎるほどの練習をしてきました。ですので、まず明日も(体力が)持つと思います。ただ、年齢から来る疲れは3~4日経ってから出ますので、福岡の第一戦が一番心配です。
それでも、ここに来てから毎日日常生活も見ていますが、現役の頃に完全に戻っている。夜は9時過ぎに寝るし朝も早い。朝9時過ぎから練習もしているし……その姿を、現役が見られないのが残念です。完全にツアー生活に戻っている。一言で、すごいな、と思っています。
この大会を一回戦から振り返りますと、一回戦は、ジュニアの高校のダブルスチャンピオンですね(対田島杏奈6-7、6-1、6-3)。ファーストセットは、(田島は)伊達が引き出した力で勝ったと思います。それが、セットが終わった瞬間にフッと現実に戻り、その瞬間、勝ちビビリをして負けた。その一試合で、伊達は11年分の試合勘やペース配分を取り戻したと思います。
<中略>
伊達との付き合いは長いですが、彼女が今、20年分くらい戻っていることは事実です。ちょうど私と出会った14~5歳のころに戻り、それを37歳という年齢の中でテニスをやっているのが現状です。
彼女から「疲れた」という言葉が、一度も出ない。これだけの「負けず嫌い」をまだまだ持っているというのには、あきれて、正直、物が言えないです。
若い選手に学んで欲しいのは、(伊達は)あるゾーンに入ると、周りが一切見えないような状態になる部分。そのゾーンの切り替えの出来る選手というのは、凄いですね。セカンド(セット)を落としても、ファイナルにまた違うギアで入り、最後、超高速に入る。
ただ、今の彼女が昔と違うと思うのは、前は取りたいポイントを取れなかったとき、感情のコントロールが出来なかったことがあったと思う。それが今は、感情の乱れが全然出ない。
だから、見ているお客さんはとても楽しいのではと思います。お客は、絶対にもういっぺん見たくなると思いますよ、あのテニスを。
今回の伊達が変わったところがあるとすれば、強いて言うなら、旦那が居るということ。独身でやっているのと、旦那が後ろにいるというのは、大きく違いますね。そこら辺が、彼女にとってエネルギーになっている。
去年の8月からエキシビジョンに向けて練習はしていたんですが、その中で、「グラフに勝ちたい」「ナブラチロワに勝ちたい」というので、練習量がだんだん増えてきた。僕が練習に付き合った冬場では、朝6時頃から起きてランニングしたりして、9時くらいから5時くらいまでテニスコートに居た。そして夜に(体の)トリートメントをやっている。すごく練習する代わりに、すごく食事をとり、よく寝るということをしているうちに、どの辺で彼女が「現役復帰したい」と思ったかは分からないけれど、おそらく1月頃だったのではないかと思います。
それで、3月10日だったと思いますが、練習見ていたときに、旦那と二人で「復帰したい」と言ってきた。
練習量は、ハンパじゃないですよ。「もう止めとけ」と言ったくらいですから。
ランニングは、その他の現役と一緒に走っていました。ず~っと同じペースで6キロ走ったり、そのあとにテニスをやったりして。1月頃からトレーナーを入れて、爆発力をつけるトレーニングをしたり。
現役と一緒にやっていても、依然として一番能力が高いのが、伊達でした。アキレス腱一度切って、あれだけ飛ぶのか、と思ったくらいで(笑)。だからそれを見たとき、出来るな、と思いました。半端じゃないですよ。現実の裏の真実ですね。「えっ、ここまでやるの? もう止めて良いんじゃない?」と言っても、やってましたから。
4月14日から、オムニ(人工芝)のコートで練習をしていました。土居美咲と一緒に、午前2時間、午後2時間。このコートでやったら、ハードコートでは出ない足腰のダメージがあるので、初日に「腰が痛い」と言ってましたが、それでもトレーナーを入れてやっていた。その日から大会に入る25日まで、雨が降った二日間休んだだけだと思う。「休め」と言いましたから。それでもインドアで練習をしたいと言っていたんですが、僕が止めました。
復帰を決めた以上、出るなら全日本選手権まで出たいと言っていた。恥ずかしいことは出来ない、と。それが、元世界4位のプライドだと思うし、こっちも「やるからには、それくらいやってもらわなきゃ困る」と言いましたが、それをいきなり、第一週でやってくれました。
とても厳しい決意だったと思います。皆さん(メディア)の前では笑って言ってると思いますけど、本当に、メチャメチャやっています。
全日本選手権も、ワイルドカードで出ようと思えば、出られる。でも、本人はランキングでちゃんと勝負したい、そう言っていたんです。今大会も、メインドローに出すと言われたんですが、「それは要らない」と言いました。僕が(伊達に)話したのは、0ポイントの人間が、トップシードと当たって負けたらどうするんだ、と。1ポイントが欲しいのか、それとも12年のブランクを取り戻したいのか。だから、あんたは予選から始めろ、と。ステップ・バイ・ステップで行こうと言ったら、ものの見事にクリアしてくれた。
ただ笑っちゃう話だけれど、伊達は、まず「どうやって大会に出るんですか?」というところから始めたんです。「国際トーナメントに出るには、IPIN(International Player Identification Number) が無いと駄目」というところから説明したんですよ。日本テニス協会へのプロ登録の仕方も知らない。国際大会の出方なんて、知らないんですよ。だって彼女、ITFの試合は1万ドルを7トーナメント出ただけだと思います。それでランキングを上げて、直ぐに上のツアーに出ましたから。
それで私が強化本部長として若いコーチたちに言っているのは、日本人選手は今まで、年間にどれくらいワイルドカード(以下WC)をもらっているのか、と。
WCというのは、スポンサーがお金を集めてトーナメントをやる中で、本当に重要なものなのだと。だから、こんなもの一年に4回も5回ももらってもしょうがない。本来はWCなんて、選手を育成するためのものなんだから。
今回、奈良や山外はWCで出ましたが、二人とも確実に一回勝ってポイントを稼いだ。それが大切なんです。出て「経験になる」なんて言ってるなら止めておけ、と。そういうことは、今まで参考になるような事例がなかったので、若いコーチたちもあまり実感が無かったようですが、今回、私が伊達にやってきたことを示せたということで、みんな分かってきた。いかにWCが大切かを示せたことでも、大きかったと思います。。
奈良とのダブルスは、私が指示してやらせました。ウィンブルドンJr.ダブルス準優勝者の二人が、伊達と組んだらどんな心境になるかを見たかった。その中で「奈良は立派やなぁ」と思うのは、メンタル的にタレント性がある。伊達の横で、なかなかあれだけダブルス出来ませんよ。昨日も、ポーチ一回出てダメだったところを、直ぐにもう一回やって決めた。なかなか出来ないことです。
奈良が凄いと思ったんは、伊達とやった二試合目で、「伊達さんの動きが分かってきた」と言ったんですよ。奈良は体は小さいですが、これは何とかやってくれるのでは、と。そう思いました。
来週は、土居が伊達と組みますが、どう動くか、それを見てみたいですね。一緒に練習したり敵にするのと、隣でやるのは違いますから。そこで、色んなもんを学ぶと思います。
本当に、目に見えない色んなモノが、浮き彫りになってきました。僕は、日本のテニスは間違いなく、来週から変わると思います。中村や藤原も、来週は目の色を変えてやってくるでしょう。
皆さん方には、思いっきり書いて下さって結構です。「ナニやってる、日本のテニス」と書いて下さって良いです。ここで私が受けて立っていますから。
伊達が復帰一回戦で与えたこの出来事を、「ショック」と取るのか「インパクト」と取るのかで、全然変わってきます。
以上。。。。
準優勝までしたのは
偶然では無く必然だった。。。。
YAHOOでも何度も取り上げられている
JTA強化本部本部部長「今の日本女子だらしない!」
伊達公子を小さい頃から指導してきた小浦 武志さんが、
伊達公子さんが復帰を決意し、選手になる経緯の
お話が記載されていたので
ぜひ時間がある方は見て欲しい
あの復帰には並大抵の努力と決意があったのが
この文におさめられています
自分はこの文章を見て奮起しました。。。
勝つのは本当に難しい。。。
伊達公子は元世界4位だから・・・
なんて言葉で片付けれないものがありました。
小浦さんの話
「昨日の中村、その前に藤原が負けたということもあり、随所で、「日本テニスはどうなってるんや」という話が聞かれます。
ただ(伊達は)3週連続で(大会に)出るので、体力的なことも懸念されますが、来週また同じことが起きるかと言ったら、かなりのチェックが伊達に入りますので、それは難しいと思います。
なので、来週の福岡の戦いは、伊達がそんなに簡単に勝てるとは思っていません。
今回の復帰までのことで話をすると、3月のエキシビジョンの前に、
伊達から「(復帰して大会に)出たい」という相談を受けました。
その時、二人で約束事をして、「なぜ出るのか、出るテーマをはっきりさせよう」としました。
ただ単に遊びで出るなら、これは止めた方が良いと。
これまで彼女は現役を止めて11年半、キッズテニスやJICAなどのセカンドキャリアでテニスに携わってきましたが、私としては、正直物足りなかった。
50歳になっても出来る仕事だと。
なら、今出たいというなら、「名選手、必ずしも名コーチあらず」ということもありますから、あなたがテニス界にできることは、体を張って恩返しをすることだと。
それが一番。
次に、チャレンジャーとして絶対にあきらめない姿を現役に見せられるのであれば、体を張って教えてやってくれと。
それが出来るなら、やろうということで、話し合いました。
その上で、3週連続で戦える体力があるかという判断を私もしまして、出来ると(判断した)。
ハードコートであれば、もしかしたらもっとペースが上がるかも知れない量の練習を、この1月からほぼ毎日、やりすぎるほどの練習をしてきました。ですので、まず明日も(体力が)持つと思います。ただ、年齢から来る疲れは3~4日経ってから出ますので、福岡の第一戦が一番心配です。
それでも、ここに来てから毎日日常生活も見ていますが、現役の頃に完全に戻っている。夜は9時過ぎに寝るし朝も早い。朝9時過ぎから練習もしているし……その姿を、現役が見られないのが残念です。完全にツアー生活に戻っている。一言で、すごいな、と思っています。
この大会を一回戦から振り返りますと、一回戦は、ジュニアの高校のダブルスチャンピオンですね(対田島杏奈6-7、6-1、6-3)。ファーストセットは、(田島は)伊達が引き出した力で勝ったと思います。それが、セットが終わった瞬間にフッと現実に戻り、その瞬間、勝ちビビリをして負けた。その一試合で、伊達は11年分の試合勘やペース配分を取り戻したと思います。
<中略>
伊達との付き合いは長いですが、彼女が今、20年分くらい戻っていることは事実です。ちょうど私と出会った14~5歳のころに戻り、それを37歳という年齢の中でテニスをやっているのが現状です。
彼女から「疲れた」という言葉が、一度も出ない。これだけの「負けず嫌い」をまだまだ持っているというのには、あきれて、正直、物が言えないです。
若い選手に学んで欲しいのは、(伊達は)あるゾーンに入ると、周りが一切見えないような状態になる部分。そのゾーンの切り替えの出来る選手というのは、凄いですね。セカンド(セット)を落としても、ファイナルにまた違うギアで入り、最後、超高速に入る。
ただ、今の彼女が昔と違うと思うのは、前は取りたいポイントを取れなかったとき、感情のコントロールが出来なかったことがあったと思う。それが今は、感情の乱れが全然出ない。
だから、見ているお客さんはとても楽しいのではと思います。お客は、絶対にもういっぺん見たくなると思いますよ、あのテニスを。
今回の伊達が変わったところがあるとすれば、強いて言うなら、旦那が居るということ。独身でやっているのと、旦那が後ろにいるというのは、大きく違いますね。そこら辺が、彼女にとってエネルギーになっている。
去年の8月からエキシビジョンに向けて練習はしていたんですが、その中で、「グラフに勝ちたい」「ナブラチロワに勝ちたい」というので、練習量がだんだん増えてきた。僕が練習に付き合った冬場では、朝6時頃から起きてランニングしたりして、9時くらいから5時くらいまでテニスコートに居た。そして夜に(体の)トリートメントをやっている。すごく練習する代わりに、すごく食事をとり、よく寝るということをしているうちに、どの辺で彼女が「現役復帰したい」と思ったかは分からないけれど、おそらく1月頃だったのではないかと思います。
それで、3月10日だったと思いますが、練習見ていたときに、旦那と二人で「復帰したい」と言ってきた。
練習量は、ハンパじゃないですよ。「もう止めとけ」と言ったくらいですから。
ランニングは、その他の現役と一緒に走っていました。ず~っと同じペースで6キロ走ったり、そのあとにテニスをやったりして。1月頃からトレーナーを入れて、爆発力をつけるトレーニングをしたり。
現役と一緒にやっていても、依然として一番能力が高いのが、伊達でした。アキレス腱一度切って、あれだけ飛ぶのか、と思ったくらいで(笑)。だからそれを見たとき、出来るな、と思いました。半端じゃないですよ。現実の裏の真実ですね。「えっ、ここまでやるの? もう止めて良いんじゃない?」と言っても、やってましたから。
4月14日から、オムニ(人工芝)のコートで練習をしていました。土居美咲と一緒に、午前2時間、午後2時間。このコートでやったら、ハードコートでは出ない足腰のダメージがあるので、初日に「腰が痛い」と言ってましたが、それでもトレーナーを入れてやっていた。その日から大会に入る25日まで、雨が降った二日間休んだだけだと思う。「休め」と言いましたから。それでもインドアで練習をしたいと言っていたんですが、僕が止めました。
復帰を決めた以上、出るなら全日本選手権まで出たいと言っていた。恥ずかしいことは出来ない、と。それが、元世界4位のプライドだと思うし、こっちも「やるからには、それくらいやってもらわなきゃ困る」と言いましたが、それをいきなり、第一週でやってくれました。
とても厳しい決意だったと思います。皆さん(メディア)の前では笑って言ってると思いますけど、本当に、メチャメチャやっています。
全日本選手権も、ワイルドカードで出ようと思えば、出られる。でも、本人はランキングでちゃんと勝負したい、そう言っていたんです。今大会も、メインドローに出すと言われたんですが、「それは要らない」と言いました。僕が(伊達に)話したのは、0ポイントの人間が、トップシードと当たって負けたらどうするんだ、と。1ポイントが欲しいのか、それとも12年のブランクを取り戻したいのか。だから、あんたは予選から始めろ、と。ステップ・バイ・ステップで行こうと言ったら、ものの見事にクリアしてくれた。
ただ笑っちゃう話だけれど、伊達は、まず「どうやって大会に出るんですか?」というところから始めたんです。「国際トーナメントに出るには、IPIN(International Player Identification Number) が無いと駄目」というところから説明したんですよ。日本テニス協会へのプロ登録の仕方も知らない。国際大会の出方なんて、知らないんですよ。だって彼女、ITFの試合は1万ドルを7トーナメント出ただけだと思います。それでランキングを上げて、直ぐに上のツアーに出ましたから。
それで私が強化本部長として若いコーチたちに言っているのは、日本人選手は今まで、年間にどれくらいワイルドカード(以下WC)をもらっているのか、と。
WCというのは、スポンサーがお金を集めてトーナメントをやる中で、本当に重要なものなのだと。だから、こんなもの一年に4回も5回ももらってもしょうがない。本来はWCなんて、選手を育成するためのものなんだから。
今回、奈良や山外はWCで出ましたが、二人とも確実に一回勝ってポイントを稼いだ。それが大切なんです。出て「経験になる」なんて言ってるなら止めておけ、と。そういうことは、今まで参考になるような事例がなかったので、若いコーチたちもあまり実感が無かったようですが、今回、私が伊達にやってきたことを示せたということで、みんな分かってきた。いかにWCが大切かを示せたことでも、大きかったと思います。。
奈良とのダブルスは、私が指示してやらせました。ウィンブルドンJr.ダブルス準優勝者の二人が、伊達と組んだらどんな心境になるかを見たかった。その中で「奈良は立派やなぁ」と思うのは、メンタル的にタレント性がある。伊達の横で、なかなかあれだけダブルス出来ませんよ。昨日も、ポーチ一回出てダメだったところを、直ぐにもう一回やって決めた。なかなか出来ないことです。
奈良が凄いと思ったんは、伊達とやった二試合目で、「伊達さんの動きが分かってきた」と言ったんですよ。奈良は体は小さいですが、これは何とかやってくれるのでは、と。そう思いました。
来週は、土居が伊達と組みますが、どう動くか、それを見てみたいですね。一緒に練習したり敵にするのと、隣でやるのは違いますから。そこで、色んなもんを学ぶと思います。
本当に、目に見えない色んなモノが、浮き彫りになってきました。僕は、日本のテニスは間違いなく、来週から変わると思います。中村や藤原も、来週は目の色を変えてやってくるでしょう。
皆さん方には、思いっきり書いて下さって結構です。「ナニやってる、日本のテニス」と書いて下さって良いです。ここで私が受けて立っていますから。
伊達が復帰一回戦で与えたこの出来事を、「ショック」と取るのか「インパクト」と取るのかで、全然変わってきます。
以上。。。。
2007年11月08日
ヒンギス、ラスト特集
2003年休業宣言をし、
世界に一人、偉大な選手が幕を閉じようとしていた
原因はモチベーションもそうだが、
足の怪我が深刻で歩行や少しの運動なら支障は無いが
プロレベルのなかでだと足は生命線なので
ヒンギスは静かにコートを去った。。。
その後はインタビュアーや解説者、遊びで乗馬やゴルフ
若くしてテニス界の女王になったので
今までの青春、楽しみたい
ヒンギスは、自分がやりたい事をやり、過ごしていた
ヒンギスは解説者としては、毒舌であり、
「えっ??あれを決めれないの??
私なら絶対決めるわ」
など、世界の頂点を極めた人だからこそ、言える解説・・
けど、だからといって、解説に才能があるかというと
そんな事は無かったようだ
けど解説をしている時に、ふと私ならこうやるわ!!
私ならこうして勝ちにいくかしら?
そう思っているうちに、ヒンギスの中のテニス魂が
燃えてきて、後は足の怪我との戦いであった
お医者さんは足は問題ないとの診断
そして
・・・2006年、ヒンギスが突然の復帰
これはテニス界にとっては、大きなサプライズであった
だが周囲の目は厳しく、ヒンギスのテニスは古い
3年も休んでいて、今のパワーテニスに勝てるはずが無い
ヒンギスは年始から試合であった。。
筋トレのパワートレーニングを3ヶ月やっただけで
持久力まで鍛えていける時間が無かったようで
はじめ、ヒンギスの体力面がキーであった
1月オーストラリアハードコート選手権ではSF進出
その次のアディダス国際ではエナンと1回戦
であたり2-6、3-6であった
エナンは言った「もう彼女のテニスは古いから勝っていけない・・・・」
全豪はヒンギスと相性の良い大会
全豪の1回戦では、
シード選手ベラ・ズボナレワであった。。
素質の高い選手で元世界ランク9位だった選手
そして前哨戦準優勝をして、良い調子で全豪に入った彼女
周囲はヒンギスを応援するものの半身半疑であった
だが周囲の心配をよそに
ズボナレワをずっと攻めて、コントロールとボールの高低さ、ライジングなどを織り交ぜ快勝で勝ったのであった
WOWOWの解説者も大絶賛でテニスはパワーだけではない!
など改めてテニスの面白さを視聴者に訴えかけた
TVを見ていた人たちは虜になり、
「ヒンギスの試合をぜひまたお願いします」
と局にお願いの電話が鳴り続けた
久々にパワーだけでない、戦略と、技術でのテニスの
醍醐味があった
またその全豪ではベスト8で第2シードのキム・クリスターズに負けたものの、素晴らしい試合運びだった
そして、圧巻は日本で行われていた東レ
東レはヒンギスは1997年~2002年まで決勝にいって
東レでは、東レの顔とも呼ばれていた
2006年、約4年ぶりに復活であった
そこで当時世界ランキング4位、同大会の第1シードだったシャラポワに
6-3、6-1でまさかの勝利
その東レ戦の光景は目を疑いたくなるほど
シャラポワを手玉にとり、ヒンギスが戦略と相手を翻弄する
ヒンギスのカムバックにふさわしい試合をした
シャラポワが一番驚いていた結果であった
その後も好成績を残し、ランキングは右肩上がりに上昇する
そしてイタリアで復帰後、Tier1のイタリア国際選手権で
バイディソワ、ビーナス・ウィリアムスなどの強豪を倒し
見事優勝
その時点でランキングは16位まで上り詰めていた
全仏ではベスト8まで進出し、
ヒンギスの復活はセンセーショナルであった
ウィンブルドン、全米では早期敗退をしてしまったが
その後も優勝をして
その年のランキングベスト8しか出場出来ない
最後の大会WTAツアー・チャンピオンシップにも
出場権を獲得し、
そこでは、ペトロワに勝利し、エナン、モーレスモには惜しくも負けたがフルセットまでもつれ、
ヒンギス自身、1年でここまで来れるなんて・・・・
1年でランク外から7位まで上り詰め
ヒンギスの復活は誰の目から見ても成功であった
2007年、今年
全豪ではベスト8まで進出し、
東レでは今、世界ランク4位のイバノビッチを手玉に取るように決勝で勝利で優勝
ヒンギス自身も自分がこんな成績を残せていけて
自分自身のこれからに期待をしてしまう自分がいるわ!!
今年はよりブレイクするかと思われた
しかし、怪我に悩まされ、婚約を破棄したり
体力的にも、精神的にも不安定になり
思うように試合が出来ず勝てなくなった
東レ以降、10大会で準々決勝に2回で
後は、2回戦、3回戦での早期敗退
ランキングの低い選手や若手の選手に負けていく・・・
ラケットを途中バボラに変更しようなど、
ヒンギス自身も悩み、解決をしようとしていた
9月以来、臀部の怪我を理由に来年の試合に調整する為に
すぐ今年のツアーを終了し、来年に備えようとしていた
しかし、今回2度目の引退を発表した
それは真実かはわからないが、ヒンギスがコカインという
麻薬を使用したとの事でドーピング疑惑が浮上したのだ
ドーピングとなると最低でも2年試合は出場停止である・・・
ヒンギスはすると30歳になってしまう。。。
ヒンギスはその疑惑と裁判で戦うみたいだが
続ける意思はもう無かった
ヒンギスが裁判と戦いツアーを回って行くのは
とても忙しく、ヒンギス自身もその期間をもっと有意義に
つかいたいと涙声ながら会見に出た
偉大な選手がこんな終わり方をしてほしくないです
もっと晴れやかに引退を盛大に祝ってあげたかったな
でも本当にヒンギスのプレーは最高でした
ヒンギスありがとう
世界に一人、偉大な選手が幕を閉じようとしていた
原因はモチベーションもそうだが、
足の怪我が深刻で歩行や少しの運動なら支障は無いが
プロレベルのなかでだと足は生命線なので
ヒンギスは静かにコートを去った。。。
その後はインタビュアーや解説者、遊びで乗馬やゴルフ
若くしてテニス界の女王になったので
今までの青春、楽しみたい
ヒンギスは、自分がやりたい事をやり、過ごしていた
ヒンギスは解説者としては、毒舌であり、
「えっ??あれを決めれないの??
私なら絶対決めるわ」
など、世界の頂点を極めた人だからこそ、言える解説・・
けど、だからといって、解説に才能があるかというと
そんな事は無かったようだ
けど解説をしている時に、ふと私ならこうやるわ!!
私ならこうして勝ちにいくかしら?
そう思っているうちに、ヒンギスの中のテニス魂が
燃えてきて、後は足の怪我との戦いであった
お医者さんは足は問題ないとの診断
そして
・・・2006年、ヒンギスが突然の復帰
これはテニス界にとっては、大きなサプライズであった
だが周囲の目は厳しく、ヒンギスのテニスは古い
3年も休んでいて、今のパワーテニスに勝てるはずが無い
ヒンギスは年始から試合であった。。
筋トレのパワートレーニングを3ヶ月やっただけで
持久力まで鍛えていける時間が無かったようで
はじめ、ヒンギスの体力面がキーであった
1月オーストラリアハードコート選手権ではSF進出
その次のアディダス国際ではエナンと1回戦
であたり2-6、3-6であった
エナンは言った「もう彼女のテニスは古いから勝っていけない・・・・」
全豪はヒンギスと相性の良い大会
全豪の1回戦では、
シード選手ベラ・ズボナレワであった。。
素質の高い選手で元世界ランク9位だった選手
そして前哨戦準優勝をして、良い調子で全豪に入った彼女
周囲はヒンギスを応援するものの半身半疑であった
だが周囲の心配をよそに
ズボナレワをずっと攻めて、コントロールとボールの高低さ、ライジングなどを織り交ぜ快勝で勝ったのであった
WOWOWの解説者も大絶賛でテニスはパワーだけではない!
など改めてテニスの面白さを視聴者に訴えかけた
TVを見ていた人たちは虜になり、
「ヒンギスの試合をぜひまたお願いします」
と局にお願いの電話が鳴り続けた
久々にパワーだけでない、戦略と、技術でのテニスの
醍醐味があった
またその全豪ではベスト8で第2シードのキム・クリスターズに負けたものの、素晴らしい試合運びだった
そして、圧巻は日本で行われていた東レ
東レはヒンギスは1997年~2002年まで決勝にいって
東レでは、東レの顔とも呼ばれていた
2006年、約4年ぶりに復活であった
そこで当時世界ランキング4位、同大会の第1シードだったシャラポワに
6-3、6-1でまさかの勝利
その東レ戦の光景は目を疑いたくなるほど
シャラポワを手玉にとり、ヒンギスが戦略と相手を翻弄する
ヒンギスのカムバックにふさわしい試合をした
シャラポワが一番驚いていた結果であった
その後も好成績を残し、ランキングは右肩上がりに上昇する
そしてイタリアで復帰後、Tier1のイタリア国際選手権で
バイディソワ、ビーナス・ウィリアムスなどの強豪を倒し
見事優勝
その時点でランキングは16位まで上り詰めていた
全仏ではベスト8まで進出し、
ヒンギスの復活はセンセーショナルであった
ウィンブルドン、全米では早期敗退をしてしまったが
その後も優勝をして
その年のランキングベスト8しか出場出来ない
最後の大会WTAツアー・チャンピオンシップにも
出場権を獲得し、
そこでは、ペトロワに勝利し、エナン、モーレスモには惜しくも負けたがフルセットまでもつれ、
ヒンギス自身、1年でここまで来れるなんて・・・・
1年でランク外から7位まで上り詰め
ヒンギスの復活は誰の目から見ても成功であった
2007年、今年
全豪ではベスト8まで進出し、
東レでは今、世界ランク4位のイバノビッチを手玉に取るように決勝で勝利で優勝
ヒンギス自身も自分がこんな成績を残せていけて
自分自身のこれからに期待をしてしまう自分がいるわ!!
今年はよりブレイクするかと思われた
しかし、怪我に悩まされ、婚約を破棄したり
体力的にも、精神的にも不安定になり
思うように試合が出来ず勝てなくなった
東レ以降、10大会で準々決勝に2回で
後は、2回戦、3回戦での早期敗退
ランキングの低い選手や若手の選手に負けていく・・・
ラケットを途中バボラに変更しようなど、
ヒンギス自身も悩み、解決をしようとしていた
9月以来、臀部の怪我を理由に来年の試合に調整する為に
すぐ今年のツアーを終了し、来年に備えようとしていた
しかし、今回2度目の引退を発表した
それは真実かはわからないが、ヒンギスがコカインという
麻薬を使用したとの事でドーピング疑惑が浮上したのだ
ドーピングとなると最低でも2年試合は出場停止である・・・
ヒンギスはすると30歳になってしまう。。。
ヒンギスはその疑惑と裁判で戦うみたいだが
続ける意思はもう無かった
ヒンギスが裁判と戦いツアーを回って行くのは
とても忙しく、ヒンギス自身もその期間をもっと有意義に
つかいたいと涙声ながら会見に出た
偉大な選手がこんな終わり方をしてほしくないです
もっと晴れやかに引退を盛大に祝ってあげたかったな
でも本当にヒンギスのプレーは最高でした
ヒンギスありがとう
2007年11月07日
ヒンギス特集part5
2001年、ヒンギスはどうしても2000年の様に
「NO.1なのにGSが取れない」
と言われたくない・・・・・
ヒンギスは2000年年末~2001年年明け
NO.1を維持するためトレーニングに費やした
パワー化が進んでいき、ヒンギスもやはり
フィジカルのより強化がヒンギスにも必要とされた
ヒンギス自身も、トレーニングをよりしていかないと勝てない
そうトレーニングをして年末年始、鍛え上げた
そのトレーニングは顕著にヒンギスに結果をもたらした
全豪オープンの前哨戦
アディダス国際という大会がある
そこではほとんどのTOP選手が全豪の調整試合として参加し、
優勝したものは全豪で良い結果をいつもの残すといわれている
ヒンギスは出場し、
1回戦 BYE
2回戦 キム・クリスタース 6/4 6/4
QF セレナ・ウィリアムズ 6/4 7/5
SF コンチータ・マルチネス 6/3 6/2
Final リンゼイ・ダベンポート 6/3 4/6 7/5
とハードヒッター達を続々と破り、優勝
トレーニングの結果を
肌で感じたヒンギス
全豪もいける・・・・
そんなヒンギスに大きな壁が、生じる
全豪のドローを見ると4回戦まではヒンギスにとって敵と思われる選手はいなかったが
QFではセリーナ・ウィリアムス
SFではビーナス・ウィリアムス
Fではリンゼイ・ダベンポート
と非常にタフなドローだった
大方の予想では、ヒンギスは乗り越えられないな~
という雰囲気であった
全豪オープンが開幕し、やはりヒンギスは4回戦までは
順当に戦っていく
ベスト8までにはあまりにも予定通り、
ヒンギスを筆頭にウィリアムス姉妹、ダベンポートの4強が
危なげなく顔を揃えていた
打倒パワー・プレーヤーを最大の目標に掲げたヒンギスにとっては
願ってもない状況である状態であった
QFはやはりセリーナ・ウィリアムス
この戦いは激戦であった
第1セットはヒンギスが速い展開でコーナーに打っていき
セリーナを翻弄し、奪取する
第2セット、セレーナも徐々に身体が動き始め
切り替えしのショットの質が上がっていき、
ヒンギスを苦しめる
第2セットを取られセットオールになる
セレーナは第3セットも乗っており、ヒンギスを力で
押しこんでいく
2-5となり、ヒンギス絶体絶命のピンチだった
セリーナ相手に、2-5だとサーブが強いセリーナには
厳しかった・・・・・
だがここからヒンギスは脅威の粘りを見せる
そこから大逆転をして、8-6で勝利をするのである
ヒンギス自身も最高の試合と称した、2時間19分という
激戦であった
SFはビーナス・ウィリアムスだった
ヒンギスは最初緊張した面持ちであったが
ビーナスが明らかに、調整不足のプレーで安定しないと
わかるとヒンギスは一気にビーナスを振り回し
ミスをさせる!!
ヒンギスの戦いにビーナスは強打を単発にしか
いれられなく、結果は6-1、6-1で
激戦を期待されたカードはあっけなく終了した
もうヒンギスは、体力の限界であった・・・
が、後、一人を倒せたら私が必ず・・・・・
相手はジェニファー・カプリアティだった・・
あのダベンポートを軽々と破って決勝へ進出してきた
年末、年始練習相手、ヒッティングパートナーに
していたカプリアティで
ヒンギスとのそれまでの
対戦成績はヒンギスの5勝0敗
ヒンギス楽勝かと思われた・・・
しかし、ヒンギス対策も、ヒンギスの攻め方も
癖も熟知しているようだった
カプリアティはヒンギスに圧倒的なパワーで打ち破ってきた
ヒンギスはカプリアティの振っても振っても拾って切り返してくる
ショットに少しずつ押され、大砲の様な強力なショットを
打って仕留めにくるショットにお手上げだった
5年連続の決勝進出だったが、ヒンギスはまた決勝で敗退した
しかし、好調さは続きその後の東レでは決勝で敗れるものの
カタール、ドバイと優勝をし、
年始から5大会中3大会優勝、2大会準優勝と
安定感を見せ付ける
しかし、それ以降ヒンギスはその年、優勝をする事も
決勝へ進む事もなかった
次々と選手が力をつけてきて
ジェニファー・カプリアティキム・クリスターズ、
アメリーモーレスモ・エレナ・デメンティエバなど
に敗れ始め、
全仏ではカプリアティに
ウィンブルドンではまさかの1回戦敗退
全米ではセリーナ・ウィリアムスに手も足もでない位打ち込まれて、敗退・・・
もうヒンギスを女王と呼ぶものはいなかった
ヒンギスはその後のポルシェ・グランプリ準決勝で右足首の靭帯断裂
手術と6週間休養
世界ランキング1位は連続73週間で止まり
年末ランキング4位で終了
ヒンギスは新たな壁に直面していた・・・
けどたくさんの世界のヒンギスファンからの応援、
まだ自分を信じたい
3ヶ月休養後
2002年、断裂後、初の
またアディダス国際で優勝
この怪我からの復帰戦はヒンギスのやる気を上昇させた
全豪オープンではなんと6年連続決勝進出
相手は去年負けたカプリアティであった
けどヒンギスは言う・・・・
もう失うものは無いわ
全豪で取りたかった決勝、マッチポイントは4回あった
欲しくて欲しくてたまらなかったGSタイトル・・・・
しかし、結果は大逆転劇でカプリアティの優勝だった
ヒンギスは結果を真摯に受け止めたが、ロッカーで
大泣きであった
自分の目の前に、目標があったから・・・・・
それから5月に左足の故障が悪化
また手術を受ける事になり
全仏、ウインブルドンを欠場
それから
全米にはまだ復帰して間もないまま出て4回戦で敗退
再び左足の故障が悪化
と怪我に悩まされて、試合も1回戦敗退が多くなり
、もうtop10の
プレーにも追いつかなかった・・・・
もう私の時代は終わった・・・・
年末に無期限の休養を宣言する・・・・・
「NO.1なのにGSが取れない」
と言われたくない・・・・・
ヒンギスは2000年年末~2001年年明け
NO.1を維持するためトレーニングに費やした
パワー化が進んでいき、ヒンギスもやはり
フィジカルのより強化がヒンギスにも必要とされた
ヒンギス自身も、トレーニングをよりしていかないと勝てない
そうトレーニングをして年末年始、鍛え上げた
そのトレーニングは顕著にヒンギスに結果をもたらした
全豪オープンの前哨戦
アディダス国際という大会がある
そこではほとんどのTOP選手が全豪の調整試合として参加し、
優勝したものは全豪で良い結果をいつもの残すといわれている
ヒンギスは出場し、
1回戦 BYE
2回戦 キム・クリスタース 6/4 6/4
QF セレナ・ウィリアムズ 6/4 7/5
SF コンチータ・マルチネス 6/3 6/2
Final リンゼイ・ダベンポート 6/3 4/6 7/5
とハードヒッター達を続々と破り、優勝
トレーニングの結果を
肌で感じたヒンギス
全豪もいける・・・・
そんなヒンギスに大きな壁が、生じる
全豪のドローを見ると4回戦まではヒンギスにとって敵と思われる選手はいなかったが
QFではセリーナ・ウィリアムス
SFではビーナス・ウィリアムス
Fではリンゼイ・ダベンポート
と非常にタフなドローだった
大方の予想では、ヒンギスは乗り越えられないな~
という雰囲気であった
全豪オープンが開幕し、やはりヒンギスは4回戦までは
順当に戦っていく
ベスト8までにはあまりにも予定通り、
ヒンギスを筆頭にウィリアムス姉妹、ダベンポートの4強が
危なげなく顔を揃えていた
打倒パワー・プレーヤーを最大の目標に掲げたヒンギスにとっては
願ってもない状況である状態であった
QFはやはりセリーナ・ウィリアムス
この戦いは激戦であった
第1セットはヒンギスが速い展開でコーナーに打っていき
セリーナを翻弄し、奪取する
第2セット、セレーナも徐々に身体が動き始め
切り替えしのショットの質が上がっていき、
ヒンギスを苦しめる
第2セットを取られセットオールになる
セレーナは第3セットも乗っており、ヒンギスを力で
押しこんでいく
2-5となり、ヒンギス絶体絶命のピンチだった
セリーナ相手に、2-5だとサーブが強いセリーナには
厳しかった・・・・・
だがここからヒンギスは脅威の粘りを見せる
そこから大逆転をして、8-6で勝利をするのである
ヒンギス自身も最高の試合と称した、2時間19分という
激戦であった
SFはビーナス・ウィリアムスだった
ヒンギスは最初緊張した面持ちであったが
ビーナスが明らかに、調整不足のプレーで安定しないと
わかるとヒンギスは一気にビーナスを振り回し
ミスをさせる!!
ヒンギスの戦いにビーナスは強打を単発にしか
いれられなく、結果は6-1、6-1で
激戦を期待されたカードはあっけなく終了した
もうヒンギスは、体力の限界であった・・・
が、後、一人を倒せたら私が必ず・・・・・
相手はジェニファー・カプリアティだった・・
あのダベンポートを軽々と破って決勝へ進出してきた
年末、年始練習相手、ヒッティングパートナーに
していたカプリアティで
ヒンギスとのそれまでの
対戦成績はヒンギスの5勝0敗
ヒンギス楽勝かと思われた・・・
しかし、ヒンギス対策も、ヒンギスの攻め方も
癖も熟知しているようだった
カプリアティはヒンギスに圧倒的なパワーで打ち破ってきた
ヒンギスはカプリアティの振っても振っても拾って切り返してくる
ショットに少しずつ押され、大砲の様な強力なショットを
打って仕留めにくるショットにお手上げだった
5年連続の決勝進出だったが、ヒンギスはまた決勝で敗退した
しかし、好調さは続きその後の東レでは決勝で敗れるものの
カタール、ドバイと優勝をし、
年始から5大会中3大会優勝、2大会準優勝と
安定感を見せ付ける
しかし、それ以降ヒンギスはその年、優勝をする事も
決勝へ進む事もなかった
次々と選手が力をつけてきて
ジェニファー・カプリアティキム・クリスターズ、
アメリーモーレスモ・エレナ・デメンティエバなど
に敗れ始め、
全仏ではカプリアティに
ウィンブルドンではまさかの1回戦敗退
全米ではセリーナ・ウィリアムスに手も足もでない位打ち込まれて、敗退・・・
もうヒンギスを女王と呼ぶものはいなかった
ヒンギスはその後のポルシェ・グランプリ準決勝で右足首の靭帯断裂
手術と6週間休養
世界ランキング1位は連続73週間で止まり
年末ランキング4位で終了
ヒンギスは新たな壁に直面していた・・・
けどたくさんの世界のヒンギスファンからの応援、
まだ自分を信じたい
3ヶ月休養後
2002年、断裂後、初の
またアディダス国際で優勝
この怪我からの復帰戦はヒンギスのやる気を上昇させた
全豪オープンではなんと6年連続決勝進出
相手は去年負けたカプリアティであった
けどヒンギスは言う・・・・
もう失うものは無いわ
全豪で取りたかった決勝、マッチポイントは4回あった
欲しくて欲しくてたまらなかったGSタイトル・・・・
しかし、結果は大逆転劇でカプリアティの優勝だった
ヒンギスは結果を真摯に受け止めたが、ロッカーで
大泣きであった
自分の目の前に、目標があったから・・・・・
それから5月に左足の故障が悪化
また手術を受ける事になり
全仏、ウインブルドンを欠場
それから
全米にはまだ復帰して間もないまま出て4回戦で敗退
再び左足の故障が悪化
と怪我に悩まされて、試合も1回戦敗退が多くなり
、もうtop10の
プレーにも追いつかなかった・・・・
もう私の時代は終わった・・・・
年末に無期限の休養を宣言する・・・・・
2007年11月05日
ヒンギス特集part4
1999年TIGテニスクラッシクで復帰してから
ヒンギスは全米を含む8大会に出場をし、
2大会優勝、後の6大会では4大会決勝、2大会は準決勝進出
など、
安定した成績を見せる一方、
ヒンギスはこの6大会で
ウィリアムス姉妹、ダベンポートのこの3人に2回ずつ負けていた
パワーテニスの本格化が徐々にヒンギスに襲い掛かっていた
2000年、ヒンギスが最も得意とする全豪オープンでは
第1シードとして、登場したヒンギスは、
期待通り、いつも通りというか決勝へ進出
4連覇が同大会かかっていた
そんな決勝の相手は絶好調第2シードのダベンポート
最近3連敗中だった
決勝はヒンギスがダベンポートの
圧倒的なショットの前に、何度も振り回され、
やられて展開が出来なくなっていた
ヒンギスは敗退をして、パワーへの脅威をさらに感じる事になる・・・
この2000年、第1シードで出場しながら一度もGSを取れなかった
負けた相手は
全仏ではメアリー・ピアース
ウィンブルドンのQF・全米のSFではビーナス・ウィリアムスに・・・
全員がパワーヒッターだ
パワーに押される女王・・・・
そんな話題が広まった
ただ、GSが取れなくても圧倒的な安定感と
出場大会数でもTOP10の中でも、20大会出るヒンギス
取りこぼしをしない為、ポイントを得て1位であり続けれた
2000年は年間10大会優勝と他のだれより安定をしたプレーを見せた
しかし、記者や、スポーツ関係者から厳しい意見も出ていた
GSを年内に取れていないのに
世界ランク1位なんておかしい・・・
ランキングの制度を厳しくしろ!など、ヒンギスはより
追い詰められていく・・
2000年ヒンギス自身1番気にしており、
全米では、SFに進出した際、
ミックスダブルスにも同大会で出場していたが、シングルスで優勝したい・・
パートナーのジャン・マイケル・ギャンビルにお願いをして
「シングルスに全てを懸けたい、ミックスを辞退させて」
けれども、ビーナスには勝てず、
未完の女王のレッテルを貼られてしまった
最後の年内のTOP16人が出れるチェイス選手権という
WTAの第5のGSといわれる大会で
ヒンギスは第1シードで出場
ヒンギスは安定した勝ち上がりで決勝へ進出、
相手は得意といていたモニカ・セレスだった
セレスも、久しぶりの大舞台での決勝という事もあり
お互い、角度をつけたショットの応酬
ヒンギスはどうしても取りたいタイトル・・・
だけどセレスがここぞという粘りと会心の一撃で
いつも一歩リードをしている状態
ヒンギスは明らかに、精神的にも「限界」という中で
セレスのリードを取り戻し、途中叫んだり、ポイントを
なかなか取れない状態にイライラしたり
ヒンギスがそのタイトルが欲しいのを全面に出して戦っていた
結果、ヒンギスは勝利をした
ヒンギスはマッチポイントを取ると大粒に涙が溢れ
嬉しさを全面に出した
「若い頃から勝って当たり前、そう思っていたから
勝つ事に対して涙なんて出した事なんてなかった・・・
でも本当に勝ちたい勝利をした時、自然と涙が出てきたの」後に語っている
「私は世界1位という事を証明出来た
私を未完の女王なんていわせない」
ヒンギスは、最高の形でシーズンを終えた
part5に続く
ヒンギスは全米を含む8大会に出場をし、
2大会優勝、後の6大会では4大会決勝、2大会は準決勝進出
など、
安定した成績を見せる一方、
ヒンギスはこの6大会で
ウィリアムス姉妹、ダベンポートのこの3人に2回ずつ負けていた
パワーテニスの本格化が徐々にヒンギスに襲い掛かっていた
2000年、ヒンギスが最も得意とする全豪オープンでは
第1シードとして、登場したヒンギスは、
期待通り、いつも通りというか決勝へ進出
4連覇が同大会かかっていた
そんな決勝の相手は絶好調第2シードのダベンポート
最近3連敗中だった
決勝はヒンギスがダベンポートの
圧倒的なショットの前に、何度も振り回され、
やられて展開が出来なくなっていた
ヒンギスは敗退をして、パワーへの脅威をさらに感じる事になる・・・
この2000年、第1シードで出場しながら一度もGSを取れなかった
負けた相手は
全仏ではメアリー・ピアース
ウィンブルドンのQF・全米のSFではビーナス・ウィリアムスに・・・
全員がパワーヒッターだ
パワーに押される女王・・・・
そんな話題が広まった
ただ、GSが取れなくても圧倒的な安定感と
出場大会数でもTOP10の中でも、20大会出るヒンギス
取りこぼしをしない為、ポイントを得て1位であり続けれた
2000年は年間10大会優勝と他のだれより安定をしたプレーを見せた
しかし、記者や、スポーツ関係者から厳しい意見も出ていた
GSを年内に取れていないのに
世界ランク1位なんておかしい・・・
ランキングの制度を厳しくしろ!など、ヒンギスはより
追い詰められていく・・
2000年ヒンギス自身1番気にしており、
全米では、SFに進出した際、
ミックスダブルスにも同大会で出場していたが、シングルスで優勝したい・・
パートナーのジャン・マイケル・ギャンビルにお願いをして
「シングルスに全てを懸けたい、ミックスを辞退させて」
けれども、ビーナスには勝てず、
未完の女王のレッテルを貼られてしまった
最後の年内のTOP16人が出れるチェイス選手権という
WTAの第5のGSといわれる大会で
ヒンギスは第1シードで出場
ヒンギスは安定した勝ち上がりで決勝へ進出、
相手は得意といていたモニカ・セレスだった
セレスも、久しぶりの大舞台での決勝という事もあり
お互い、角度をつけたショットの応酬
ヒンギスはどうしても取りたいタイトル・・・
だけどセレスがここぞという粘りと会心の一撃で
いつも一歩リードをしている状態
ヒンギスは明らかに、精神的にも「限界」という中で
セレスのリードを取り戻し、途中叫んだり、ポイントを
なかなか取れない状態にイライラしたり
ヒンギスがそのタイトルが欲しいのを全面に出して戦っていた
結果、ヒンギスは勝利をした
ヒンギスはマッチポイントを取ると大粒に涙が溢れ
嬉しさを全面に出した
「若い頃から勝って当たり前、そう思っていたから
勝つ事に対して涙なんて出した事なんてなかった・・・
でも本当に勝ちたい勝利をした時、自然と涙が出てきたの」後に語っている
「私は世界1位という事を証明出来た
私を未完の女王なんていわせない」
ヒンギスは、最高の形でシーズンを終えた
part5に続く
2007年11月04日
ヒンギス特集part3
1996年全米オープンでベスト4まで進出をし
それでヒンギスは自分は強い
より自信をつけた
そこから怒涛の初優勝、その後の残り年内の4大会も
準優勝、準決勝、優勝、
世界のTOP16人しか入れない女子のマスターズでは
引退を決めた伊達公子を2回戦で、準決勝はイバ・マヨーリ
に勝利し
決勝を当時世界NO1のグラフに
3/6 6/4 0/6 6/4 0/6 で負けたものの
グラフにこの子は将来絶対にNO1になる・・・・・
私の時代が終わろうとしている・・・
と思わせたらしい
96年は世界ランキングは4位まで上昇
1997年グランドスラムで全豪オープンのシングルスで
史上最年少優勝
弱冠16歳であった
そして年始から全仏オープンまでの6大会全優勝
シドニー国際、全豪オープン、東レ、フランスガスオープン、リプトン選手権、この5大会で優勝をした事によって
世界ランキング1位の座に
史上最年少の16才6ヶ月で就いた
その後もファミリーサークル・マガジン・カップを優勝して6大会連続優勝
だけれども、落馬によりひざの靱帯を切断するアクシデントがヒンギスを襲う
手術をして、まだ様子見の段階であったが
全仏オープンに出場し、準優勝という好成績
6月末に始まったウィンブルドン選手権に第一シードで出場したヒンギスは、
注目される中でオープン化後の史上最年少記録で初優勝
全米オープンもセットダウン無しの完勝での優勝
四大大会のうち3つを制し、全ての決勝へ進出
17大会中、12大会優勝で圧倒的強さを見せつけ
ヒンギス時代を創り上げた
ヒンギス自身も後々語っていたが
「今(2001年)考えると、もっと貪欲にやっていればもっと上にいけたかもしれない」
若くして世界NO1になってしまい、ちょっとした安心感が
あったのだろう・・・
これほど簡単にNO1にならなければ、歩みを止めることはなかっただろう・・・・
98年、そんな安心感から、全豪オープンは簡単に取れたものの、ダベンポートが本格化してきて、
ウィリアムス姉妹が少しずつ力を蓄えていた・・・・
全仏オープン、ウィンブルドンはベスト4。
全米オープンはダベンポートに負け準優勝に終わり、
世界ランキングが2位になってしまった
今まで、追いかける立場から1位を守っていく立場に
変わり、1位であり続ける難しさを知る
1999年 全豪オープン3連覇達成
やはり女王はヒンギス
そう思わせる納得の試合であった
その後、日本に来て東レPPOテニス決勝でクッツアーに圧倒的な試合運びで優勝して
世界ランクトップに返り咲いた
そしてヒンギスの
一番のターニングポイントであっただろう・・・
全仏決勝である
グラフが次のウィンブルドンで引退を決め、
世界の生ける伝説プレーヤーの引退には世界中が涙をした
そんなグラフが全仏で、決勝まで進み
現NO1のマルチナ・ヒンギスと元世界NO1のグラフの
新旧対決で、世界が注目をしていた
ヒンギスは自信を覗かせ、
後、一つ取っていないタイトル・・・
そして、グラフの伝説を私が止める・・・・
絶好調だったヒンギスはこんな想いから
試合初めから飛ばしていく
グラフもさすがに、ヒンギスにやはり押されている場面が
目立った
第1セットは楽にセットを取って
ヒンギスはやはり強かった・・・・
で終わる予定であった
が、一つのジャッジからヒンギスは、
集中を切らし、プレーを長々と中断させ、
奔放さを露呈しまい、マナー的に不信感を抱いた
観客が猛然のブーイングの嵐
ヒンギスは完全に全仏観客全員を敵に回し、
グラフを後押しをした観客達は、ヒンギスのやる気を
無くすには十分であった
ヒンギスは泣きながら、プレーをした。。。。
グラフは、半分貰い物の勝利だった
グラフが第2セット、第3セットを取り勝利した
ヒンギスは終わると、表彰式を出たくないと
全仏のコートから立ち去り、泣きじゃくった
母親にすがりつきながら泣きながら、表彰式に出た・・
全仏の観客はヒンギスのコールをされると
ブーイングを浴びせ、ヒンギスはフランスを敵に回した1戦であった
その影響からか、その年のウインブルドンでまさかの1回戦敗退
相手は伸び盛りのドキッチであった
その負けにより再びダベンポートに女王の座を奪われる
心に傷を負ったヒンギスは2ヶ月休養し
復帰戦でTIGテニスクラッシクを優勝
完全復帰を見せ再びトップの座に返り咲く
その大会でウェアとシューズをアディダスと契約する
part4に続く・・・
それでヒンギスは自分は強い
より自信をつけた
そこから怒涛の初優勝、その後の残り年内の4大会も
準優勝、準決勝、優勝、
世界のTOP16人しか入れない女子のマスターズでは
引退を決めた伊達公子を2回戦で、準決勝はイバ・マヨーリ
に勝利し
決勝を当時世界NO1のグラフに
3/6 6/4 0/6 6/4 0/6 で負けたものの
グラフにこの子は将来絶対にNO1になる・・・・・
私の時代が終わろうとしている・・・
と思わせたらしい
96年は世界ランキングは4位まで上昇
1997年グランドスラムで全豪オープンのシングルスで
史上最年少優勝
弱冠16歳であった
そして年始から全仏オープンまでの6大会全優勝
シドニー国際、全豪オープン、東レ、フランスガスオープン、リプトン選手権、この5大会で優勝をした事によって
世界ランキング1位の座に
史上最年少の16才6ヶ月で就いた
その後もファミリーサークル・マガジン・カップを優勝して6大会連続優勝
だけれども、落馬によりひざの靱帯を切断するアクシデントがヒンギスを襲う
手術をして、まだ様子見の段階であったが
全仏オープンに出場し、準優勝という好成績
6月末に始まったウィンブルドン選手権に第一シードで出場したヒンギスは、
注目される中でオープン化後の史上最年少記録で初優勝
全米オープンもセットダウン無しの完勝での優勝
四大大会のうち3つを制し、全ての決勝へ進出
17大会中、12大会優勝で圧倒的強さを見せつけ
ヒンギス時代を創り上げた
ヒンギス自身も後々語っていたが
「今(2001年)考えると、もっと貪欲にやっていればもっと上にいけたかもしれない」
若くして世界NO1になってしまい、ちょっとした安心感が
あったのだろう・・・
これほど簡単にNO1にならなければ、歩みを止めることはなかっただろう・・・・
98年、そんな安心感から、全豪オープンは簡単に取れたものの、ダベンポートが本格化してきて、
ウィリアムス姉妹が少しずつ力を蓄えていた・・・・
全仏オープン、ウィンブルドンはベスト4。
全米オープンはダベンポートに負け準優勝に終わり、
世界ランキングが2位になってしまった
今まで、追いかける立場から1位を守っていく立場に
変わり、1位であり続ける難しさを知る
1999年 全豪オープン3連覇達成
やはり女王はヒンギス
そう思わせる納得の試合であった
その後、日本に来て東レPPOテニス決勝でクッツアーに圧倒的な試合運びで優勝して
世界ランクトップに返り咲いた
そしてヒンギスの
一番のターニングポイントであっただろう・・・
全仏決勝である
グラフが次のウィンブルドンで引退を決め、
世界の生ける伝説プレーヤーの引退には世界中が涙をした
そんなグラフが全仏で、決勝まで進み
現NO1のマルチナ・ヒンギスと元世界NO1のグラフの
新旧対決で、世界が注目をしていた
ヒンギスは自信を覗かせ、
後、一つ取っていないタイトル・・・
そして、グラフの伝説を私が止める・・・・
絶好調だったヒンギスはこんな想いから
試合初めから飛ばしていく
グラフもさすがに、ヒンギスにやはり押されている場面が
目立った
第1セットは楽にセットを取って
ヒンギスはやはり強かった・・・・
で終わる予定であった
が、一つのジャッジからヒンギスは、
集中を切らし、プレーを長々と中断させ、
奔放さを露呈しまい、マナー的に不信感を抱いた
観客が猛然のブーイングの嵐
ヒンギスは完全に全仏観客全員を敵に回し、
グラフを後押しをした観客達は、ヒンギスのやる気を
無くすには十分であった
ヒンギスは泣きながら、プレーをした。。。。
グラフは、半分貰い物の勝利だった
グラフが第2セット、第3セットを取り勝利した
ヒンギスは終わると、表彰式を出たくないと
全仏のコートから立ち去り、泣きじゃくった
母親にすがりつきながら泣きながら、表彰式に出た・・
全仏の観客はヒンギスのコールをされると
ブーイングを浴びせ、ヒンギスはフランスを敵に回した1戦であった
その影響からか、その年のウインブルドンでまさかの1回戦敗退
相手は伸び盛りのドキッチであった
その負けにより再びダベンポートに女王の座を奪われる
心に傷を負ったヒンギスは2ヶ月休養し
復帰戦でTIGテニスクラッシクを優勝
完全復帰を見せ再びトップの座に返り咲く
その大会でウェアとシューズをアディダスと契約する
part4に続く・・・
2007年11月03日
ヒンギス特集part2
12歳の時、ヒンギスは、
1993年の全仏で、グランドスラム大会のジュニアの部で初優勝を遂げた
12歳にも関わらず、18歳以下の部に出場をして
14歳以下のヨーロッパでは圧倒的に強いと言われ
すごく話題になっていた。
ここでよく考えて欲しい・・・・
小学6年生の選手が、高校2,3年生と戦う事を
想像すればわかるように、圧倒的な体力差がある
背も低く体格も華奢なのに、コート上にたっていて
存在感がある、顔つきも自信に満ち溢れテニスを楽しんでいる少女が、
高校3年生相手に、力は無くても
相手の力を利用したカウンターショットや、バランスを崩さず膝を適度に曲げずに楽に打ち返したり、スライスを駆使したりする。
そして相手のボールが少しでも甘くなると
身体を乗せたフォアの逆クロスやネットに詰めてのボレー
で決めてしまう
またバックのドロップショットなどは信じられないほど
上手く、戦略の組み立ても12歳が考えられる範疇と技術をはるかに越えていた
12,13歳で今のテニスの基本は全て出来ていた
94年、ヒンギスがツアーに出場をし始める
ヒンギスが10月4日に初出場
その試合を
イリナ・スピルレア(元TOP10プレーヤー)は驚いた
「彼女はまるでテニスをする為に生まれてきたかのようね
私には、彼女もたいにはプレー出来ない・・・」
ヒンギスは相手が次にどうしようか読んで
考えながらボールに向かう。ボールはまるで
忠実な犬の様になり、ヒンギスはそれを相手コートに賢く打ち込むのだ
そして、1994年の3月には、
WTAのランキングでも399位に顔を出し、
その後わずか15ヶ月で、1995年6月12日にはトップ10入りを果たしている。
1996年7月8日に、ウインブルドンの最年少チャンピオン(ダブルスで)の記録を打ち立て、
96年ポルシェテニスグランプリでシングルス初優勝をする
そこからヒンギスはより絶頂に向かう
part3に続く・・・
1993年の全仏で、グランドスラム大会のジュニアの部で初優勝を遂げた
12歳にも関わらず、18歳以下の部に出場をして
14歳以下のヨーロッパでは圧倒的に強いと言われ
すごく話題になっていた。
ここでよく考えて欲しい・・・・
小学6年生の選手が、高校2,3年生と戦う事を
想像すればわかるように、圧倒的な体力差がある
背も低く体格も華奢なのに、コート上にたっていて
存在感がある、顔つきも自信に満ち溢れテニスを楽しんでいる少女が、
高校3年生相手に、力は無くても
相手の力を利用したカウンターショットや、バランスを崩さず膝を適度に曲げずに楽に打ち返したり、スライスを駆使したりする。
そして相手のボールが少しでも甘くなると
身体を乗せたフォアの逆クロスやネットに詰めてのボレー
で決めてしまう
またバックのドロップショットなどは信じられないほど
上手く、戦略の組み立ても12歳が考えられる範疇と技術をはるかに越えていた
12,13歳で今のテニスの基本は全て出来ていた
94年、ヒンギスがツアーに出場をし始める
ヒンギスが10月4日に初出場
その試合を
イリナ・スピルレア(元TOP10プレーヤー)は驚いた
「彼女はまるでテニスをする為に生まれてきたかのようね
私には、彼女もたいにはプレー出来ない・・・」
ヒンギスは相手が次にどうしようか読んで
考えながらボールに向かう。ボールはまるで
忠実な犬の様になり、ヒンギスはそれを相手コートに賢く打ち込むのだ
そして、1994年の3月には、
WTAのランキングでも399位に顔を出し、
その後わずか15ヶ月で、1995年6月12日にはトップ10入りを果たしている。
1996年7月8日に、ウインブルドンの最年少チャンピオン(ダブルスで)の記録を打ち立て、
96年ポルシェテニスグランプリでシングルス初優勝をする
そこからヒンギスはより絶頂に向かう
part3に続く・・・
2007年11月03日
ヒンギス特集!!
今回自分がヒンギスの大ファンとして
ヒンギスが引退という事で
ヒンギスの生い立ちから今までを振り返ってみたいと
思っています
Martina Hingis
1980年9月30日 スロバキア・コシチェ生まれ
身長170cm 体重59kg
キャリア最高ランキング 1位
1980年9月30日コシチェにて、
テニス選手カロル・ヒンギスとテニス選手メラニーモリターとの間に子供が生まれる
その生まれた子はマルチナ・ヒンギスだ
マルチナ・ヒンギスの由来は
母、メラニー・モリターは昔、テニスの才能の持ち主で
国内ランキング2位の記録を持つ天才であったが
父親が反共産党主義の影響で、世界で活躍が望めずに
夢を絶たれていた
そして子供が生まれた時、世界で活躍するように・・・
そう、ナブラチロワの様に。。。。
そんな気持ちから、マルチナという名前をつけた
そして2歳でヒンギスは、低いネットを使って、
テニスをするようになる、
メラニーはとにかく誉め続けた
ヒンギスにテニスを嫌いにならないで欲しい・・・・・
この頃スキーもやり始めたらしい
そして2年後、ヒンギスはテニスの大会へ初出場した
そこから試合へ出て行くようになる
その後、両親は離婚
でもメラニーはヒンギスを世界の1流プレーヤーに・・・
メラニーがヒンギスを連れ、ロジュノフへ移り住む
とにかくテニスをさせて、飽きたら休ませと
考え、テニスをやらせていく
ヒンギスは5歳ながらに8歳児の為の大会へ出場
もう5歳のヒンギスに8歳児では敵う相手などいなかった
ヒンギスは両親が離婚して以来、家族は何回も居住を
転々とする
スイスへ移り住み、ザンクトガレルン州
ライン峡谷、トゥルーバッハ・・・・
宿泊施設がついている警察署、消防署、歯医者さえも・・
屋根があるところなら、どんな場所でも・・・
母親だけで、ヒンギスを養う事はとても大変で
とにかく貧乏であった
そして、若いヒンギスは言葉をすぐに覚えていく
スイス・ドイツ語を喋れるし、学校の勉強も簡単だが
やはり他国の国の子供とヒンギスはなかなか友達に
なりにくく、ヒンギスは戸惑った。。。
ヒンギスはそんな居住を転々した経緯から
誰にも親しく話す、親しい人柄なのだろう
ヒンギスは9歳になり、14歳以下の部門で
スイス・チャンピオンとなり、とにかく負け知らずだった
10歳で試合で始めて元チェコ国内で2位だった母親を
勝ち、才能をより開花させた
11歳でIMGと5年契約を交わし、世界のヒンギスへと
階段へ上っていくこととなる
ヒンギスは、最後の天才児として、一つのシンボルになると
言われた
それほど11歳ながら11歳と思えない天才ぶりが
プレーヤーから専門家から賞賛をされていた
part2へ続く・・・
ヒンギスが引退という事で
ヒンギスの生い立ちから今までを振り返ってみたいと
思っています
Martina Hingis
1980年9月30日 スロバキア・コシチェ生まれ
身長170cm 体重59kg
キャリア最高ランキング 1位
1980年9月30日コシチェにて、
テニス選手カロル・ヒンギスとテニス選手メラニーモリターとの間に子供が生まれる
その生まれた子はマルチナ・ヒンギスだ
マルチナ・ヒンギスの由来は
母、メラニー・モリターは昔、テニスの才能の持ち主で
国内ランキング2位の記録を持つ天才であったが
父親が反共産党主義の影響で、世界で活躍が望めずに
夢を絶たれていた
そして子供が生まれた時、世界で活躍するように・・・
そう、ナブラチロワの様に。。。。
そんな気持ちから、マルチナという名前をつけた
そして2歳でヒンギスは、低いネットを使って、
テニスをするようになる、
メラニーはとにかく誉め続けた
ヒンギスにテニスを嫌いにならないで欲しい・・・・・
この頃スキーもやり始めたらしい
そして2年後、ヒンギスはテニスの大会へ初出場した
そこから試合へ出て行くようになる
その後、両親は離婚
でもメラニーはヒンギスを世界の1流プレーヤーに・・・
メラニーがヒンギスを連れ、ロジュノフへ移り住む
とにかくテニスをさせて、飽きたら休ませと
考え、テニスをやらせていく
ヒンギスは5歳ながらに8歳児の為の大会へ出場
もう5歳のヒンギスに8歳児では敵う相手などいなかった
ヒンギスは両親が離婚して以来、家族は何回も居住を
転々とする
スイスへ移り住み、ザンクトガレルン州
ライン峡谷、トゥルーバッハ・・・・
宿泊施設がついている警察署、消防署、歯医者さえも・・
屋根があるところなら、どんな場所でも・・・
母親だけで、ヒンギスを養う事はとても大変で
とにかく貧乏であった
そして、若いヒンギスは言葉をすぐに覚えていく
スイス・ドイツ語を喋れるし、学校の勉強も簡単だが
やはり他国の国の子供とヒンギスはなかなか友達に
なりにくく、ヒンギスは戸惑った。。。
ヒンギスはそんな居住を転々した経緯から
誰にも親しく話す、親しい人柄なのだろう
ヒンギスは9歳になり、14歳以下の部門で
スイス・チャンピオンとなり、とにかく負け知らずだった
10歳で試合で始めて元チェコ国内で2位だった母親を
勝ち、才能をより開花させた
11歳でIMGと5年契約を交わし、世界のヒンギスへと
階段へ上っていくこととなる
ヒンギスは、最後の天才児として、一つのシンボルになると
言われた
それほど11歳ながら11歳と思えない天才ぶりが
プレーヤーから専門家から賞賛をされていた
part2へ続く・・・
2007年09月29日
マリア・キリレンコストーリー
今回AIG前というので色んな選手の紹介などを
して選手の事をより知ってもらい、AIGを楽しく観てもらおうと思います
今日紹介する選手はマリア・キリレンコ
マリア・キリレンコ
1987年1月25日 ロシアのモスクワ生まれの20歳
現在ランク29位(07/9月29日)
身長168cm 体重51kg
右利き、両手バックハンド
マリア・キリレンコがテニスに知り合ったのは
7歳の時
それまで5歳の時にはバレリーナになるべく勉強を始めていたという彼女
テニスを始めて1年でロシアの同世代のNo.1になっていたという生粋の天才であった
それからモスクワの名門スポーツクラブでトレーニングを続けていた
12歳の時、かつてのソ連のチャンピオンだったエレナ・ブリュホピッツという
ロシアのナショナルチームのコーチの目に留まり、キリレンコの才能を高く評価した
彼女なら世界No.1になれる
その直後、援助と共に個人的なコーチを引き受けると
キリレンコの為にチーム組織を作り
3年計画が立てられて実行された
この計画は全て順当に消化され
3年後の15歳の時には同世代のジュニアでは世界No.1になり、
18歳以下としても2位となった彼女は2002年には
全米ジュニアで優勝
この成績を引っさげてWTAツアーに乗り込んできた彼女
世界最高ランクは2006年6月にランクされた20位
ジュニアで数々の偉業を成し遂げてきた彼女が
プロの世界では13大会1,2回戦負けを喫し
落ち込んで、テニス選手に向いていないと
ロッカールームで泣き出した事もあったそうだ
でも13大会1,2回戦負けの後、突如初優勝をしてしまったのだ
彼女の武器はバランスの良さである
強打者相手でも自分のタイミングとバランスでプレーを
していける選手は少ない
彼女のバランスの良さは天性を感じさせ
世界最高峰のバレリーナを続々輩出してきたロシアの
伝統が、テニスに優雅さと鮮麗さを与える選手を投入してきた
先週のKolkata Open 2007では2度目の優勝
今週は韓国オープンでは今準決勝進出と
勢いにのって、2大会連続優勝を狙っている
AIGでは優勝を引っさげて、やってくるのか?
それにしろ絶好調で乗り込んでくるのは
間違いない
彼女のプレーに期待してみてください
して選手の事をより知ってもらい、AIGを楽しく観てもらおうと思います
今日紹介する選手はマリア・キリレンコ
マリア・キリレンコ
1987年1月25日 ロシアのモスクワ生まれの20歳
現在ランク29位(07/9月29日)
身長168cm 体重51kg
右利き、両手バックハンド
マリア・キリレンコがテニスに知り合ったのは
7歳の時
それまで5歳の時にはバレリーナになるべく勉強を始めていたという彼女
テニスを始めて1年でロシアの同世代のNo.1になっていたという生粋の天才であった
それからモスクワの名門スポーツクラブでトレーニングを続けていた
12歳の時、かつてのソ連のチャンピオンだったエレナ・ブリュホピッツという
ロシアのナショナルチームのコーチの目に留まり、キリレンコの才能を高く評価した
彼女なら世界No.1になれる
その直後、援助と共に個人的なコーチを引き受けると
キリレンコの為にチーム組織を作り
3年計画が立てられて実行された
この計画は全て順当に消化され
3年後の15歳の時には同世代のジュニアでは世界No.1になり、
18歳以下としても2位となった彼女は2002年には
全米ジュニアで優勝
この成績を引っさげてWTAツアーに乗り込んできた彼女
世界最高ランクは2006年6月にランクされた20位
ジュニアで数々の偉業を成し遂げてきた彼女が
プロの世界では13大会1,2回戦負けを喫し
落ち込んで、テニス選手に向いていないと
ロッカールームで泣き出した事もあったそうだ
でも13大会1,2回戦負けの後、突如初優勝をしてしまったのだ
彼女の武器はバランスの良さである
強打者相手でも自分のタイミングとバランスでプレーを
していける選手は少ない
彼女のバランスの良さは天性を感じさせ
世界最高峰のバレリーナを続々輩出してきたロシアの
伝統が、テニスに優雅さと鮮麗さを与える選手を投入してきた
先週のKolkata Open 2007では2度目の優勝
今週は韓国オープンでは今準決勝進出と
勢いにのって、2大会連続優勝を狙っている
AIGでは優勝を引っさげて、やってくるのか?
それにしろ絶好調で乗り込んでくるのは
間違いない
彼女のプレーに期待してみてください